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僕が物心ついたころは、ちょうど“セナ/プロ”の時代で、アイルトン・セナが一番好きでした。セナとプロストは同じマクラーレンのチームメイトで、セナは88年の日本GPで初めてのチャンピオンを獲りました。翌89年にはそのライバルふたりが日本GPで接触してプロストがチャンピオンを獲って、さらに90年には今度は別チームでしたが、またもやふたりが接触して今度はセナがチャンピオンになるという、すごい時代でした。あれがレース。あのような闘志むき出しのすごいバトルが続いたことは、その後ありません。そんな時代にセナはヨーロッパ人ではないということもあって孤立していましたが、自分の信念を貫き通す姿勢にすごく憧れました。僕はもともとクルマ好きだったのですが、セナのレースを見るようになってレースに興味を持つようになりました。
生まれ育ったのは鈴鹿に近い桑名なのですが、F1のチケットは高くて買えなくて、F3000を見に行っていました。初めてF1を見たのは93年。ウイリアムズ全盛の時代に、セナは非力なエンジンで優勝しました。そのレースは雨だったのですが、
明らかに遅いマシンながらタイヤ交換や戦略を駆使して勝つというのはすごい! すごいぞ! と思いました。
その年なのです。僕が親に反対されながらもカートを始めたのは。そしてカート2年目、高校1年のときにあの事故でセナが亡くなりました。それはびっくりしましたが、その事故をきっかけに僕も一番好きなレースを仕事にしたい、何とかレースの世界に入りたいと、強く思うようになりました。実際、セナの死によってクルマの安全規定が改善されたことは、セナが残してくれたメッセージだと思っています。
97年、僕は鈴鹿のレーシングスクールに入校(佐藤琢磨、金石年弘らと同期)して、初めて憧れの鈴鹿を走ることになりました。事前にセナのオンボード映像で研究していたのですが、やはり初めてのときはドキドキしましたね。1コーナーへの突っ込みの感動は今も覚えています。
セナもそうだったと思うのですが、僕の信条は「諦めない」ということ。壁に当たって乗れなくなる危機もありましたが、常に自分自身をプラスに持っていくようにしています。これまでトップチームでレースに臨むことができたのも、諦めずに頑張ってきたおかげだと思っています。これからも、起こったことを分析して前向きに、すべてをプラスの方向に持っていきたいです。ニスモはチャンピオンが獲れるチームです。もちろん本山さんとチャンピオンを獲るつもりで戦っていきます!
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