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1990年から世紀を超えて、グループAやJGTCのレースシーンで見せた第2世代のR32〜34スカイラインGT-Rの戦いは、幾多のタイトルを獲得しまさに栄光への疾走だった。それは第1世代のGT-Rによって、60年代後半〜70年代初頭に築かれた、あの輝かしい50勝の再来ともいえるものだった。
その栄光の礎を築いたGT-Rの第1世代は、当時の持てるレーステクノロジーの粋を集めて誕生した。
1968年8月、S57型からC10型へフルモデルチェンジされたスカイラインに、69年2月、往年の2000 GT-Bのようなホットバージョン「スカイライン2000 GT-R」(PGC10型)が追加設定される。高性能エンジンを惜しみなく投入する手法はGT-Bと同じだったが、新たなGT-Rに用意されたエンジンのスペックは驚愕すべきものだった。何とレーシングプロトR380に搭載されたGR8エンジンの流れをくむ、「S20」というスペシャルエンジンが新たに採用されたのだ。
S20は、直列6気筒DOHCで24バルブという当時としては非常に高度な機構を持ち、排気量を82×62.8mmのボアストロークから1989ccとし、これにソレックスキャブレターを組み合わせて160馬力を発揮した。“6気筒でなければGT-Rにあらず”という伝統はこのときからスタートしたが、S20と一心同体となってGT-Rの個性が大きく形づくられていった。
レースの申し子として生を受けたGT-Rだったが、初期型のPGC10は4ドアモデルのみで、大きく削られたリアフェンダーのホイールアーチが特徴だった。レースでは発売から3か月も経っていない5月3日に、富士スピードウェイで行われたJAFグランプリがデビュー戦となり、大挙して出場したクラブマンレース(TS)では篠原孝道のワークスGT-Rがライバルのトヨタ1600GTを破って記念すべきデビューウィンを飾った。これが「栄光の50勝」の第一歩だった。
69年10月の日本グランプリからフューエルインジェクション仕様となったGT-Rが登場し、寺西孝利が通算7勝目を獲得。以降、高橋国光、都平健二、黒沢元治、砂子義一、北野元、長谷見昌弘、星野一義らのそうそうたる日産のワークスドライバーや、有力プライベーター達のドライビングによって勝利数を加算し続けた。
70年10月のマイナーチェンジによってGT-Rは2ドアハードトップだけとなり、翌71年3月の全日本鈴鹿自動車レースからワークスカーも、オーバーフェンダーが精悍さを醸し出すハードトップモデルに移行した。登場以来2年を経て新たなモデルも登場し、GT-Rの開発も一段と進みS20はルーカス製のフューエルインジェクションを装備し250馬力を発揮するまでに熟成されてきた。ブレーキは前/ガーリングタイプのソリッドディスク、後/ドラムというシンプルな構成だったが、足まわりは前/ストラット、後/セミトレーリングアームであり、バランスのとれた2570mmというホイールベースから操縦性が向上し、これらが相乗効果となって勝利を引き寄せる原動力となった。
このハードトップのデビュー戦では黒沢のGT-Rが37勝目を挙げ、71年10月の富士のGC、マスターズ250kmレースで49勝をマーク。翌72年3月の富士GC、雨中の300kmスピードレース(スーパーツーリング)で高橋のGT-Rが優勝し、記念すべき50勝目の快挙を達成した。
市販のGT-Rは73年1月にKPGC110(ケンメリ)が登場したが、厳しくなる排ガス規制に対応するために途中で生産が打ち切られ、ついにレースシーンに登場することなく終わった。こうしてGT-Rは、その第2世代が誕生する89年8月までの、長い眠りにつくことになる。
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