NISSAN RACE CAR DIRECTORY 日産レースカー名鑑
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Vol.10
IMSA GTO 300ZX (1989/1995)
Vol.1 NISSAN R91CP デイトナ24時間を制したCカー 1991/1992
世界には耐久レースの極致とも言える24時間レースがいくつかあるが、中でもフランスのル・マン、ベルギーのスパ・フランコルシャン、アメリカのデイトナは三大24時間レースとして有名である。ニッサンはこれらの名だたる24時間レースに挑戦し、ル・マンこそ総合3位(98年)に止まったものの、スパ・フランコルシャンでは91年にグループA仕様のスカイラインGT-Rで優勝を飾っている。そしてデイトナでは、92年には長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男組が初出場にして優勝を実現している。今回紹介するマシンはこの92年のデイトナで優勝したR91CPである。
デイトナ24時間への出場にはいくつかの伏線があった。90年のル・マン24時間、優勝候補と目されたニッサンは、ワークスカー5台(ヨーロッパのNMEが2台、アメリカのNPTIが2台、NISMOが1台)を投入しながら敗退。ニッサン勢の中で最高位はNISMOの5位だった。91年ル・マン24時間は車両規定変更のためにニッサンワークスは出場を見送ったNISMOは90年ル・マンの振り返りとユニットの開発テストを狙いとして、Cカーでも勝負のできるアメリカ最大の24時間レースであるデイトナ24時間をターゲットに絞ったのだった。しかし、90年後半には湾岸戦争が勃発。91年のデイトナ24時間は、出場を見合わせるしかなかった。そして翌年の92年、待ちに待った機会が訪れたのだった。
R91CPはそもそもJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)をターゲットとして、100%ニッサン自製のCカーとして91年に誕生した。それまでのニッサンは、マーチやローラといったイギリス製シャシーに自社製エンジンを搭載して戦ってきたが、高性能なパワーユニットに見合うバランスのとれたマシンとするため信頼性と耐久性をさらに追求したシャシーを自製する道を選んだのだった。フルカーボンコンポジット製モノコックに、独自の空力解析から生み出された流れるようなラインのボディが被せられた。
エンジンは90年のR90CPに搭載されたV型8気筒DOHCのVRH35Z(85×77mmのボア&ストローク、3,496cc + IHI製のツインターボチャージャー)を踏襲。パワーは800ps/7,600rpm、最大トルクは80kg-m/5,600rpmという数値を発揮した。強大なパワーをミッションにつなぐクラッチは、当然ながらトリプルプレート(カーボンクラッチ)とし、トランスミッションはVGCの5速を搭載。また最高速が400km/hに達しようかというCカーには強力な制動力を要求されるが、ブレーキはR91CP専用開発のベンチレーテッドのカーボンディスクを採用していた。
そして91年のJSPCでは星野一義/鈴木利男組の#23カルソニックニッサンR91CPが7戦中3勝を挙げてチャンピオンを獲得した。R91CPのデイトナ仕様は、タイヤをグッドイヤーに変更した以外は基本的にはJSPC仕様と同じ。ただエンジンは24時間という長丁場の耐久仕様ということからパワーを680psに抑えた。また、108dB以下という音量規制によってマフラーに消音器を取り付けているのもデイトナ仕様の特徴である競技規則では91年のデイトナで採用された燃料給油の時間規制も92年にはなく、最低重量も930kgと問題なくクリア。これで、IMSA-GTP(アメリカのスポーツプロトタイプカー最高峰のクラス)勢相手にCカーの本領が発揮されることになる。
92年2月1〜2日にかけて行われた決勝レースでは、ゼッケン23のR91CPをドライブする日本人組は予選3位からスタート。長谷見がスターターを務め、何と1周目にトップに立った。途中、ラジエターのコアに砂が詰まってオーバーヒートの兆候を見せたが、これもピットインごとに水をかけて洗い流しことなきを得た。23号車にプレッシャーをかけ続けてきたヨースト・ポルシェも2日早朝にリタイアし、23号車は2位に浮上したジャガーXJR-12Dに9周の差をつけて、それまでのレース周回数記録(90年ジャガーの761周)を更新する762周で総合優勝を獲得。日本製のマシンと日本チーム、そして日本人ドライバーが初めて達成した快挙だった。
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