NISSAN RACE CAR DIRECTORY 日産レースカー名鑑
INDEX
RACE CAR DIRECTORY TOP
Vol.1
デイトナ24 (1991/1992)
Vol.2
ル・マン24 (1997/1998)
Vol.3
スカイラインGT-R(BNR32 Gr.A) (1990/1993)
Vol.4
ブルーバード510 (1969/1970)
Vol.5
スカイラインGT-R (1969/1973)
Vol.6
ブルーバードTURBO (1982/1984)
Vol.7
シルビアTURBO (1981/1984)
Vol.8
フェアレディ240Z (1971/1973)
Vol.9
プリメーラGT (1997/1999)
Vol.10
IMSA GTO 300ZX (1989/1995)
Vol.2 日本人トリオを表彰台に押し上げたル・マン専用車、R390 GT1
 日産は86年から90年までの5年間にわたり、ル・マン24時間への挑戦をグループCカーで続けてきた。しかし、参加車両のレギュレーションが変わって4年間中断し、95年からはニスモの手によってGTカテゴリーにスカイラインGT-R LMを投入し、ル・マン復活を遂げた。そしてスカイラインGT-Rに代わって97年ル・マンのGT1クラスに登場したのがNISSAN R390 GT1だった。

 1年に1回だけの開催というル・マンで、それでも2年間にわたるスカイラインでの参戦で得られた成果は大きかったが、「頂点を目指す」という意気込みを持って、新たにマシンを開発することになった。そのネーミングに往年の名車、R380からの連番を与えたことからも、日産とニスモの意気込みの大きさが伝わってくる。
こうしてR390は、ル・マンでも実績あるTWRとのジョイントという新たな取り組みから、わずか半年という短期間で開発・製作された。

 当初はオープンモデルという考えもあったというが、日産のマーケティング効果を考慮し、クローズドボディが採用された。スレンダーで前後のオーバーハングが少ないというサイドビューは、全長が4535mmで全高が1090mm。これまでのどの日産マシンより幅広い2000mmという全幅から、どっしりとした安定感を生み出している。こうしたレース界のトレンドを反映させながらも、ノーズには日産のグリルのイメージを取り入れて一層の親近感を生み出している。

 シャシーは、ハニカム構造のカーボンケブラーでモノコックを構築し、その上にカーボンコンポジットのボディが被せられた。こうしてR390が形作られたわけだが、やはりその肝はミッドに搭載されたIHI製ツインターボのDOHC V8エンジン、3495ccの排気量を持つVRH35Lだろう。グループC時代の最後を飾ったVRH35Zの後継エンジンだが、往年の1000馬力(予選)というポテンシャルはブースト制限という新たな規制によって、600馬力(レース中)にまで牙をそがれてしまったという。
とはいえ、こうしたツインターボエンジンが持ち駒にあったからこそ、短期間でのマシン製作が可能となったのは事実だった。

 こうして満を持して、97年のル・マンに3台のR390が投入され、本番前の予備予選ではマーティン・ブランドルがトップタイムをマークした。しかし予備予選終了後、突如レギュレーション変更があり、トランクルーム形状の変更を強いられた。トランクルームを金網状から箱型に改修したものの、そのベンチレーションに難があって熱気が思うように抜けず、本選では、それが遠因となって6速のシーケンシャルミッションにトラブルが多発。結局、星野一義/エリック・コマス/影山正彦組の23号車のみが12位で完走するにとどまった。

 そして98年。R390は前年の赤+黒のカラーリングから、チェッカーフラッグをイメージしたブルーの濃淡によるカラーリングに衣替えして、再びル・マンに姿を現した。97年の轍を踏まぬためにその中身も随所にリファインを施されていた。
エンジンは日産のベンチで十分なテストを済ませ、ミッションも耐久性のある特別な素材でギアを作り直した。人間工学に基づいてドライバーのシートポジションを改良し、また空力効果を上げるため、ロングテール化を図った。(全長:4720mm)

 こうした多岐にわたる対策と、また従来からトラクションコントロールやブレーキにABSを採用するなどドライバーに負担をかけない装備も功を奏し、レースではR390本来のポテンシャルが十分に発揮された。こうして星野一義/鈴木亜久里/影山正彦組が駆る32号車が3位に入ったのを筆頭に、30号車が5位、31号車が6位、33号車が10位と、全車総合10位以内に入る優れた結果を残した。

 「98年はきちんとした対策もできて、エンジンの信頼性も抜群でしたし全く問題はなかったですね。これまでの最高位の3位にも入れたし、全車10位以内で完走もできた。だからR390は成功作だと思いますよ。
また98年の予備予選で大接戦の末、本選出場権を獲得した本山哲が、その後のレースで大きく飛躍するきっかけを作ったマシンでもありますからね。こうして信頼性も上がって、正直あと1年続けていれば、という思いはありますね」と語るのは、当時レースの総指揮をとった柿元邦彦監督(現ニスモ常務取締役)。

 レースに“もしも”はないが、1年目より2年目、そして3年目に確実な結果が期待できるほど98年のル・マンで確かな感触を得ていたのだ。その後継機たるR391が99年のル・マン富士1000kmで優勝した事実がそのうらづけのひとつでもある。

日産レースカー名鑑 日産レースカー名鑑