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1990年スパ24時間レース GT-RグループN仕様で表彰台独占

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 フランスのル・マン24時間レース、アメリカのデイトナ24時間レースと並び、ベルギーのスパ・フランコルシャンサーキットで開催されるスパ24時間レースが、「世界3大24時間レース」と呼ばれていた。ル・マンとデイトナがグループCに代表されるプロトタイプカーによるレースだったのに対し、スパはツーリングカーによる24時間レースとして欧州でも人気が高かった。この「世界3大24時間レース」を制することが、当時のNISMOの目標でもあったのだ。

 1989年9月、R32スカイラインGT-Rで翌1990年のスパ24時間レースに挑戦することが決まった。初年度は市販車に近いグループN仕様で、2年目以降はグループA仕様による制覇に向けた挑戦だ。

 既にNISMOでは、1989年秋には1990年からスタートする日本国内のN1耐久レースシリーズに向けたR32 GT-Rの開発がはじまっていた。日本国内のN1車両は、当時のFIAの定めるグループN規定に準拠した、JAFの定めるN1規定の車両である。このため、グループN仕様とN1仕様の車両は、クルマ作りとしては極めて近い内容だった。

 異なる部分としては、N1規定では許されていた「GT-R NISMO」はグループNでは使えず、標準仕様の「GT-R」での参戦となっていた。このため、スパ24時間レースに参戦したGT-Rの外観は標準仕様だった。さらに、N1規定では当時溝付きのSタイヤまでしか使えなかったが、グループNではスリックタイヤが使えた。また、グループNでは車載のエアジャッキの装備も許されていた点が主な相違点だった。

 とはいえ、1990年はチームにとっては多忙を極めた。国内のN1耐久レースの開幕戦は4月、6月初旬には第2戦にエントリー。スパ24時間レースは7月中旬。スパ24時間レースに参戦する車両は2台であり、チームは2台のスパ仕様の製作と国内レースの参戦を並行して行っていたのだ。とくに2台のスパ参戦車両は船積みの関係から6月初旬にはマシンを完成させ、シェイクダウンテストを済ませた後に港に持ち込む必要があった。

 じつは、6月2,3日のN1耐久シリーズ第2戦富士ツーリングカー6時間レースの際、製作中のスパ仕様車2台は、当時、富士スピードウェイにあった日産ガレージに持ち込まれ、別グループが車両制作を行っていたのだ。レース終了後には本隊も合流し、翌月曜日にはシェイクダウンテストを済ませ、富士スピードウェイから直接、港に向けて搬出するという離れ技をやってのけていた。

 さて、スパのコースは丘陵地帯にあるためアップダウンが激しい。とくにホームストレートを下ってから一気に急な坂道を駆け上がる“オールージュ”は有名でドライバー泣かせの難コースとしても知られる。現在は全区間クローズされた専用コースとなっているが、1990年当時は、コースの半分近くが一般道を含むもので、レースの開催期間中のみ閉鎖されていた。

 1990年のスパ24時間レースに、NISMOは2台のグループN仕様のゼクセル・スカイラインで参戦。そしてイギリスのヤン・スピードからもグループN仕様の1台が参加し、計3台のR32スカイラインGT-Rがスパ・フランコルシャンに姿を現した。現地の人々もはじめて見るGT-Rに注目した。

 ところが、出走前の車検でトラブルが発生。スパ24時間レースのグループN仕様では、内装類の撤去および助手席の撤去も許されていなかったのだ。事前にFAX等で主催者側とやり取りをしたものの、NISMOチームは国内N1仕様と同じように助手席や内装を撤去していたため、問題となった。主催者との交渉の末、助手席にウエイト替わりのフライホイールを搭載することでレース参加を許された経緯があった。

 はじめて経験する24時間という長丁場のレース。グループN仕様GT-Rの最大のネックはブレーキだった。当時の純正装着である住友電工製キャリパーとドリルドローターしか使えないため、日本から大量のブレーキキャリパーとローター、そしてブレーキパッドを持ち込んでいた。

 スパ24時間レースがスタートすると、3台のGT-Rは小さなトラブルはあったものの淡々と走り切り、無事完走を果たした。結果はグループNクラスの1位から3位までをR32スカイラインGT-Rが独占。ベルギー国王のクリスタルカップまで獲得しベルギーの人々を驚かせた。

 そしてこの参戦は、翌年のグループA仕様GT-R参戦のための調査も兼ねていたのだ。コースの状況や各コーナーの縁石の高さ、そしてピット内の寸法なども、NISMOスタッフが詳細に測定して帰国した。

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