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デイトナ24時間レース制覇 R91CP(1992)

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 1990年代初頭、世界3大24時間レースと謳われる耐久レースがあった。フランスを舞台に行なわれるル・マン24時間レースは日本でも有名なレースだ。続いてお隣の国、ベルギーで開催されるのがスパ24時間レース。そして最後はアメリカで行われるデイトナ24時間レースである。この内、ル・マン24時間とデイトナ24時間は当時プロトタイプレーシングカー、すなわちグループCカーで参戦できるイベントだった。一方、スパ24時間は量産車ベースのツーリングカーで行われる耐久レースであった。

 

 NISMOは、当時、この世界3大24時間レースの制覇を目標に掲げていた。

 ル・マン24時間については1990年にあと一歩というところまで迫ったものの、NISSAN R90CPに乗る長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男の日本人トリオが最高位の総合5位でフィニッシュした。翌1991年に期待がかかったが、ル・マン24時間の規則が大幅に変更になり、参戦を取りやめル・マンへの挑戦は一時休止となった。

 ツーリングカーの祭典であるスパ24時間については、R32スカイラインGT-RのグループA仕様で1991年に見事総合優勝を飾っていた。

 

 そして1992年、NISMOはデイトナ24時間レースに挑戦した。

 ル・マン24時間レースは、1991年の規則変更からターボエンジン車による参戦が難しくなったことからル・マン24時間レースへの挑戦を断念したが、デイトナ24時間レースはターボ車での参戦が認められていた。このため当初は1991年のレースに参戦する予定だったのだ。しかし、1991年1月に湾岸戦争が勃発。このあおりを受け、デイトナ24時間レースへの参戦も断念。参戦を翌1992年に延期した経緯があった。しかしながら、この延期は悪いことばかりではなかった。1991年シーズンは、国内耐久シリーズに専念すると同時に、翌1992年のデイトナ24時間挑戦に向けたテストも精力的にこなすことができたのだ。

 そして迎えた1992年1月、NISMOはいよいよNISSAN R91CPをデイトナに持ち込んだ。ドライバーは長谷見昌弘、星野一義、鈴木利男、A・オロフソンという日本国内のグループCおよびグループAで活躍するエース級の4人だ。1990年から1年以上の時間をかけてデイトナ24時間に向けたテストを繰り返してきただけに、準備は万端。ドライバーの長谷見昌弘も「1990年からテストをしていたわけですから、自信はありました。不安な要素はすべて潰していたからね」と当時の様子を振り返っている。

 迎えた予選では、3位のポジションを獲得。そして24時間のレースがスタートした。NISMOのR91CPはスタート後1周で早くもトップを奪う速さを見せつけた。

 しかし、実際のレースでは何が起こるかわからない。夜になるとR91CPは原因不明のオーバーヒートに襲われポジションを2位に落としてしまったのだ。

 じつは地元チームのマシンはラジエターの前にフィルターを装着しピットインするたびに交換していた。それを見たNISMOスタッフは、ラジエターの目詰まりを想定し水で洗浄。マシンをコースに戻すがオーバーヒート傾向が収まらなかった。長谷見は、自分がドライブしている時にオイルを吹いたマシンの後ろを半周近く走ったことを思い出しチームに告げた。そこでメカニックは、大量のパーツクリーナーでラジエターを洗浄、オイル分を取り除いた。

 デイトナのコースは砂地の上に作られている。しかもインフィールドには縁石がなく、地元チームのドライバーは跨ぐように走るため大量の砂が巻き上げられるのだ。オイルを吹きあげるマシンの後ろを走ったことでラジエターにオイルが付着。そこに巻き上げられた細かい砂が溜まりラジエターの目詰まりを起こしていたのだという。

 このパーツクリーナーでの洗浄作業をピットインのたびに行ったが、これ以外はノントラブルで24時間を走り切って、初出場・初優勝の快挙を成し遂げた。まさに経験豊富なベテランドライバーの一言が導いた優勝ともいえるだろう。

 日本人ドライバー、日本製グループCカーによるデイトナ24時間レースの初制覇となった。しかし、4人目のドライバーであるA・オロフソンに出番はなかったが、この快挙を成し遂げた過程にはテストや国内戦で活躍したA・オロフソンの功績があったことは間違いない。

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