その他の活動 OTHER ACTIVITIES

メインビジュアル

サポーターズクラブ Club Le Mans GT-R ファンの夢と共に挑戦

●●●

 1995年、NISMOはR33型スカイラインGT-RをベースにしたGT仕様のレースカーでル・マン24時間レースに挑戦することを決めた。NISMOがル・マンに参戦するのは、1990年のグループCカーによるル・マン24時間レース挑戦から、じつに5年ぶりのことであった。1991年に実施された同レースのレギュレーション変更から参戦を見送ってきたNISMOだったが、1994年から採用されたGTカー規定に則って開発した「NISMO GT-R LM」で参戦することになったのである。

 いわゆるハコ車であるスカイラインGT-Rによるル・マン24時間レース参戦もエポックメイキングな出来事であったが、それまでのワークス活動にはなかった、日産ファンおよびスカイラインファンによるサポーターズクラブを組織したことも画期的なことだった。

 一般的にワークス活動は、自動車メーカーが自社ブランドの向上や自社製品の優秀性をアピールするために好成績を狙うものであったが、「スカイラインGT-Rをル・マンで走らせる夢、ル・マンで勝つ夢」をファンとともに追うものに変えたといえる。

 実際、ル・マン参戦時にはケータリング、医師、広報、ホイール磨きなどを、サポーターズクラブの会員が担っていたほどで、まさにファンと一体になったレース活動はこれまでにないことだったのだ。

 1993年に開幕したサッカーのJリーグ。サッカーの世界では、こうしたファンによるサポーターズクラブが組織されていた。当時、NISMOの社長であった安達二郎は、横浜マリノス誕生のキーパーソンでもあった。こうした経験から、プロサッカー界の良い面をレース業界にも導入しようと考えたのは容易に想像がつくことだろう。

 NISMOが組織したサポーターズクラブの名称は、「Club Le Mans GT-R」。1万人以上の会員が集まり、スカイラインGT-Rによるル・マン参戦をサポートした。また、ル・マンだけでなく国内のJGTC(後のSUPER GT)で日産チームを応援する“日産応援団”も「Club Le Mans GT-R」のメンバーが発端となり活動をスタート。これもこれまでにないことであった。

 当初は3ヵ年計画だった「NISMO GT-R LM」によるル・マンへの挑戦だったが、2年目となる1996年には、生産車ベースのGTカーでは勝負なならないほど、ライバル達の性能が高くなっていた。こうした状況を背景に、NISMOは翌1997年のル・マン24時間レースへの「NISMO GT-R LM」による参戦を断念し、カーボンモノコックボディの「NISSAN R390 GT1」を開発し参戦することとした。

 これに伴い、「Club Le Mans GT-R」は「Club Le Mans」に名称を変えた。さらに、その後「Club NISMO」に名称を変更し、現在へと続いている。

 現在の「Club NISMO」には様々な特典が用意されている。会員には年4回、「N-BLOOD」という会報誌が届けられる。毎年年末に開催される「NISMO FESTIVAL」に招待され、会員限定イベントへの参加権(抽選または先着順)のほか、メンバー専用ラウンジもご利用可能だ。そのほか、NISMOグッズやパーツなども会員価格で購入することができる。詳しくは「Club NISMO」専用サイトで。https://club.nismo.co.jp/

●●●