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ル・マン24時間レースへの挑戦 R390、R391(1997~1999)

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 1995年にR33スカイラインGT-RベースのGTカーではじまった、ル・マン24時間レースへの挑戦は当初、3ヵ年計画だった。しかし、ル・マンを取り巻く環境は2年で大きく変わった。ライバル達は、より戦闘力の高いミッドシップレイアウトのカーボンモノコックシャシーのマシンを投入するなどし、さながらグループCカーのようなマシンを相手に、挑戦2年目には量産車のスチールモノコックをベースとしたR33スカイラインGT-RベースのGTカーでは勝負権が無いことは明白だった。

 NISMOはこうした環境変化を受けて、R33スカイラインGT-Rによるル・マンチャンレンジを2年で終了し、1997年からはライバル達と同じようなカーボンモノコックボディのGTマシン「NISSAN R390 GT1」で参戦する英断を下したのだ。短期間でマシンを開発するため、NISMOはル・マン24時間レースでも実績のあるトム・ウォーキンショー率いるTWRとの共同プロジェクトを選択した。

 R390プロジェクトを進めるため、NISMOのスタッフはイギリスに渡り長期間、TWRのメンバーとともにR390開発を行なった。プロジェクトは極秘に進められ、日本側の大半のNISMO社員ですら、R390の姿・形は発表当日まで知らされていなかった。

 

 R390の車名は、日産ファンならご存知のように1960年代に活躍したプロトタイプレーシングカー「NISSAN R380」に由来するものだ。

 R390はカーボンモノコックボディのミッドシップカーで、搭載されたエンジンは、かつてグループC時代に最強と謳われたV8ツインターボのVRH35Zをベースに、当時のル・マン規定に合わせてリファインされたVRH35Lで、パワーはもちろん信頼性も高いパワーユニットだ。GTカーとはいえ、そのスペックはグループCに近いものだった。

 この時期のル・マン24時間レースは、マクラーレンF1 GT-Rにはじまり、ポルシェも911GT1というスペシャルマシンを投入。メルセデスもCLK-GTRというカーボンモノコックボディのミッドシップカーを開発していた時期だったことからも、NISMOが同様のパッケージのマシンの開発を決断したのは自然な流れだった。

 一方で、GTカーである以上、ロードカーも作る必要があった。R390の赤いロードカーも製作され、イギリスでナンバーを取得し実際に公道走行もしている。またカタログも製作され、ル・マンのレース会場にも展示されていた。

 R390によるル・マン24時間レース参戦にあたり、当時の社長であった安達二郎はNISMOロゴやスタッフウェア、マシンのカラーリングも一新した。それまでの日産のイメージであった赤・青・白のトリコロールカラーから、赤、黒、シルバーの現在のNISMOのイメージカラーに通ずるものに変えたのだ。「NISMOは一流ブランドとして世界一を目指すため、欧州でも通用するものに大きく変えた」と安達は語っていた。

 このように体制も含めて大きく変わった1997年のル・マン24時間レース。NISMOは3台のR390 GT1を投入。21号車にはM・ブランドル/J・ミューラー/W・タイラー、22号車はR・パトレーゼ/E・バン・デ・ポール/鈴木亜久里、そして23号車には星野一義/E・コマス/影山正彦という必勝態勢ともいえる豪華な布陣で臨んだ。

 ところがレース前の車検でR390のリアのトランク構造に注文が付いた。GTカーである以上、トランクも必要でR390もメッシュ構造の小さなトランクスペースを確保していたのだが、ロードカー同様に密閉型のトランクスペースに急遽変更を余儀なくされたのだ。

 迎えた予選で、21号車が4番グリッドを、22号車も12番グリッドを獲得し、決勝レースでも十分に上位進出が狙えるポジションとして期待された。しかし、攻めの走りを展開していた21号車、22号車はともに駆動系のトラブルでリタイヤする結果となった。密閉型トランクへ急遽変更したことで、ミッションも含めた駆動系の冷却性能に問題が生じたのだ。そして23号車は総合12位で完走。とはいえ、トップグループと互角に戦えることがわかった1997年のル・マンだった。

 1998年、R390 GT1はロングテール化され空力性能の改善と前年の課題となったトランクスペース問題も解消した。さらにABSやトランクションコントロールなど電子デバイスも搭載。トランスミッションも日産内製のシーケンシャルタイプに変更するなど、大幅にアップデートされた。

 1998年のル・マン24時間には4台のR390 GT1を投入。予選ではR390勢のトップは10番グリッドを確保した30号車だったが、決勝レースでは4台のR390は順調に走り、32号車の星野一義/鈴木亜久里/影山正彦が総合3位でゴール。史上初の「日本車による日本人ドライバー3人」が表彰台にのぼった。一方また、他の3台のR390も全車トップ10内で完走を果たした。

 1999年のル・マン24時間レースは、規則の変更によりR390が参加していたGT1クラスが事実上消滅した。そしてオープンプロトが主流になりつつあることもあり、日産陣営はオープンタイプのマシンを開発することに方針を大きく変えた。

 こうして誕生したのが「NISSAN R391」である。R391には5.0ℓV型8気筒ノンターボのVRH50A型を新規に開発し搭載した。当然ながらシャシーも新規開発となり、本番のレースまでは非常に短期の開発期間だった。

 1999年のル・マン24時間レースに、2台のR391を投入。しかし、予選で23号車がクラッシュ、大破してしまい決勝レースに出場できなかった。もう1台のR391 22号車は決勝レースに出場したものの、8時間経過時点で電気系のトラブルによりコース上でストップ。その時、ドライブしていた本山哲はピットと無線で連絡を取りながら何とか修復を試みたものの、エンジンは息を吹き返さず、無念のリタイヤとなった。

 NISMOは2000年のル・マン24時間レース出場を目指し、R391の課題を克服すべく進化させていた。同年11月6日から7日にかけて富士スピードウェイで開催された「ル・マン富士1000km」に出場。このレースに勝てば、翌2000年のル・マン24時間レースの予備予選免除という大きな特典があったのだ。

 そしてR391は見事に総合優勝を遂げ、ル・マン24時間レースへの切符を手に入れたのだった。しかし、折しも本体の日産自動車は経営不振から大胆な立て直し計画を推進し始めたところだった。このため、2000年のル・マン24時間レースへは参戦しないことを発表。NISMOはせっかく手に入れたル・マンへの切符を使うことなく断念せざるを得なかったのである。

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