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ラリー専用モデル誕生の背景(1986)
全日本ラリーを頂点とするJAFの国内ラリー車両規則は、大きな変革を2回受けていた。
古くは、エンジンの改造も許されていて、排気量アップしたフルチューンエンジンで走っていた。当時は暴走族車両が社会問題化していた時期だった。ある新聞記事がきっかけで、公道を使うラリー車の改造が問題視された。
1979年、JAFは車両規則にメスを入れ、エンジンの改造は一切禁止。エアクリーナの先端からマフラー出口まで改造できなくなった。しかし、この新しい規則にも矛盾があり、シャシー系の改造はほぼ自由だった。そのため、例えば駆動系ではクロスミッションを組み込み、サスペンションもピロボール化や車高調整式サスペンション、さらには3リンク式リヤサスペンションをトラクション性能の良い4リンク式に改造することも可能だった。しかし、これも公道を走るクルマとしては違法改造だった。
1986年にJAFは2度目のメスを入れた。エンジンの無改造はそのまま、シャシー系の改造も大きく禁止された。サスペンション系ではショックアブソーバーのみ変更が許されスプリングその他はノーマルのまま。ラリー車のアイコンだった大型のフォグランプも禁止された。ホイールも純正部品もしくは純正オプション部品までとされ、当初はラリータイヤさえ禁止された。さらに安全装備のロールバーや4点式シートベルトさえも禁止。さらにハンドルはもちろんバケットシートも禁止となった。このため、安全性が確保できないとして全日本ラリーに参加していた複数の有力チームが不参加を決意するほどだった。
この間、ラリー関係者が当局と折衝を重ね、約1年後には改造車検を取得すればロールバー装着やスプリングの変更が可能になった。しかしながら、大型フォグランプやクロスミッションは純正部品もしくは純正オプション部品でなければ使う事が出来なかった。
当時は、ミニサーキットは少なく、インターナショナルサーキットの敷居も高かったため、ナンバー付き車両で競技を楽しめるラリーやダートトライアル、ジムカーナなどのB級ライセンスで参加できる競技を楽しむクルマ好きが多かった。そうした時代背景もあって、多くの競技ユーザーは自動車メーカー製のクロスミッション等を搭載した競技ベース車両の販売を強く希望していたのである。実際、この時期には日産自動車のほかに、三菱自動車、マツダ、富士重工(当時)、そしていすゞ自動車から、国内ラリー用ベース車両が次々とラインアップされていたことからも、マーケットの規模は現在では考えられないほどの規模だったといえよう。
そして、こうした声にもっとも答えたのが日産自動車で、矢継ぎ早に国内ラリー向けベース車両を投入した。
・1987年9月、U12型ブルーバードSSS-R(1800㏄ターボ)
・1988年1月、B12型サニーVR(1600㏄)
・1988年4月、N13型パルサーR1ツインカム(1600㏄)
・1988年8月、K10型マーチR(930㏄スーパーターボ)
・1989年10月、U12型ブルーバード2.0SSS-R(2000㏄ターボにマイナーチェンジ)
・1990年8月、N14型パルサーGTI-R
開発と実戦参加(1987-1990)
これらの競技ベース車両のスペックには、NISMOの実戦経験からのノウハウがフィードバックされていた。NISMOは発表前から各種ラリーパーツの開発を行い、実戦デビュー後も、全日本ラリーに参戦する各車両のユーザーを技術的にサポートし、新たなパーツ開発も並行して行っていた。いずれの車両も、日産ディーラーで新車購入時に、NISMOのラリーオプションを装着し、タイヤとナビゲーション機材を購入すれば、即実戦参加が出来る環境となっていた。
1987年9月 U12型ブルーバードSSS-R
日産自動車初となるフルタイム4WDターボのU12型ブルーバードの国内ラリー専用車。エアコンなどの快適装備を省き、専用チューンの施されたエンジンにクロスミッションを組み合わせた。とくにエンジンは1800㏄のCA18DETに専用ターボ、コスワース社製鍛造ピストン、ステンレスエキゾーストマニホールドを装備したCA18DET-Rで、スタンダードのCA18DETの175psから185psまでパワーアップさせていた。さらにオプションで大型フォグランプやNISMO製の各種ラリーパーツ、ロールバー、フルバケットシートも購入時にディーラーで注文することができた。
1987年の最終戦で全日本ラリーにデビューしたブルーバードSSS-Rは、翌1988年にはシリーズチャンピオンを獲得。最大のライバルである、同じくラリー専用車の三菱ギャランVR-4 RSは2000㏄の排気量で中低速トルクも太く強敵で、苦戦を強いられた中での勝利だった。
1988年1月 B12型サニーVR
ブルーバードSSS-Rは1600㏄以上のCクラス用の車両だったが、1300㏄以上1600㏄以下のBクラス用として登場したのが、B12型サニーVRだ。快適装備を簡略化する手法は同じで、エンジンはCA16DE型でノンターボの4バルブDOHC。これにクロスミッションを組み合わせていた。やはりオプションで大型フォグランプなどもチョイスできた国内ラリー専用車。全日本クラスではあまり活躍しなかったが、アマチュアのラリー愛好家の間では人気が高かった。その理由は、マイルドな操縦性で、抵コストで楽しめることにあった。地方戦では比較的台数も多かった。
1988年4月 N13型パルサーR1ツインカム
サニーVRと同じパッケージングのパルサー版。サニーVRが4ドアセダンに対し、パルサーR1ツインカムは3ドアハッチバック。モンテカルロラリーなど国際ラリーに全日本ラリーの有力チームが使っていたが、当時の国内ラリーは、とくにアマチュアのラリー愛好家はスペアタイヤや工具など多くの機材を搭載するため、使い勝手の良い4ドアセダンのB12型サニーVRの方が人気は高かった。
1988年8月 K10型マーチR
B12型サニーVRやN13型パルサーR1ツインカムと同じBクラスの車両。K10型マーチは、元々は1000ccのMA10型エンジンだったが、あえて過給機付きでこのクラスに参戦するため排気量を930㏄まで下げたMA09ERT型エンジンを搭載。このエンジンは中低速域をスーパーチャージャーで過給し、高回転域を比較的大容量なターボチャージャーで過給するという特殊な機構のエンジンだった。これに超クロスレシオのミッションを組み合わせ、強烈な加速力が大きな武器だった。いわばBクラスの本命中の本命車両として、全日本クラスはもちろん、アマチュアの愛好家の間でも人気の車種となった。ただし、操縦性はジャジャ馬で、エアコンはおろか、パワーステアリングもない、文字通り超スパルタンなクルマだった。
1989年10月 U12型ブルーバード2.0 SSS-R
U12型ブルーバードがマイナーチェンジを行ない、エンジンがCA18DETから新開発のSR20DETになった。これに伴ないSSS-RのエンジンもSR20DETに変更。今回はスペシャルなエンジンではなく、標準車と同じスペックのエンジンを採用したが、1800㏄時代に課題となっていた3000rpm付近(1800㏄時代は3500rpm以上)から有効な加速力を得られるエンジンになった。同時にファイナルギヤも見直され、ライバルのギャランVR-4 RSに対し、かなり戦闘力が高くなった。実際、1990年の全日本ラリーではエースの綾部美津雄選手が第3戦から第6戦まで驚異の4連勝を挙げ、この年のチャンピオンを決めた。NISMOからのリコメンドが反映された完成度の高いラリー用ベース車だったが、この時期、既にN14型パルサーGTI-Rのデビューが、半ば公然となっていたため、参戦台数は少なかった。
1990年8月 N14型パルサーGTI-R
日産自動車が世界選手権ラリーに復活するために、満を持して投入された車両として、当時、大きな注目を集めた。エンジンは2000㏄のSR20DETだが、RB26DETTのように4連スロットルチャンバーを装着するなど230psを発揮するスペシャルなものだった。国内ラリー用としては、これにクロスミッションを搭載したグレードが用意された。全日本ラリーデビューは1990年の第7戦。ドライバーは名手・綾部美津雄選手だったが、スタート早々サスペンショントラブルを抱えながらも3位でゴールした。一方、1991年、1992年の全日本ダートトライルのNo付クラスでは2年連続チャンピオンに輝いた。1991年以降、全日本ラリーのほかにもアマチュアのラリー愛好家の多くがパルサーGTI-Rを走らせた。
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