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1984年9月17日、NISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル株式会社)は、日産自動車の宣伝三課大森分室と追浜工場特殊車両実験課を母体として誕生した。
その業務内容は、日産のワークス活動のほか、日産車でモータースポーツを楽しむアマチュアの愛好家に向けた各種スポーツパーツの開発・販売やモータースポーツ情報の発信基地としての役割も持っていた。
社屋は東京・大森(実際の住所は品川区南大井。大森は大田区)にある日産自動車旧宣伝三課大森分室のビルをそのまま使っていた。
2012年12月、NISMOは創業の地である東京・大森から、社屋を神奈川県横浜市鶴見区大黒町にある日産自動車横浜工場の一角に移転した。
大森は、宣伝三課時代から含めれば、30年以上にわたる拠点であった。
NISMOの社屋移転の話は2000年に入ったころから社内では議論されていた。
ひとつには、ビルが老朽化していたこともあり、大きな地震が来た際には耐震強度に不安があった。さらにレースカーの作業エリアは5階や6階の上層階にあり使い勝手が悪かったこともある。重量のある各種工作機械も同じフロアに置かれていたため、建物にかかる荷重も大きかった。
また、敷地面積も小さいため、レースやテストの際にトレーラーを入れてマシンや機材の搬入・搬出にも手狭なことは確かだった。実際、レースカーを5階や6階から降ろす際にはカーエレベーターを使用していたが、地上に降りた際のエリアが狭かった。ナンバー付きのロードカーならまだしも、レース専用車のハンドルの切れ角が少ないため、何回も切り返す必要があったのだ。とくにグループCカーや最近のGTカーなどのハンドル切れ角は少ないため、メカニック達の搬出作業は注意も必要だったし大きな労力を要した。
そこで、当初はビルの建て替えを検討したのだが、所在地の用途地域が変更になっていたため、建物を壊して作り直すと工場施設にできないことが判明した。
ならばと、ビルの耐震補強工事の案も検討されたが、今後のグローバルなモータースポーツ事業の拡大を見据え、また、NISMOブランドの商品拡充計画も進みつつあったことから、最終的に移転を決定した。
移転先については、当初から現在の横浜市鶴見が候補に挙がっていた。理由は、鶴見は日産自動車創業の地であり、また現社屋があるエリアには日産のエンジン開発部門があったからだ。当時、日産は将来的にはエンジン開発部門を神奈川県厚木地区に移転することが決まっていたので、その跡地にNISMO本社を移転するという案である。移転検討開始から10年以上の時を経て、2012年12月、NISMOは鶴見に本社を移転し、機能の集中化と効率化を図ったのである。
新本社の建物は、日産のデザイン本部が監修。デザインのモチーフは「Keen Senses & Superior Technique」(研ぎ澄まされた感覚と卓越した技術)、すなわち、機能と美しさの両方を兼ね備える究極の象徴として、日本古来の匠の技を現す「刀」としている。建物の内外にはこの「刀」から発想される、シャープでエッジが効いたデザインが施されている。
車両整備場も機能的にまとめられ、ワークスチームにふさわしいものとなった。
また、旧大森時代のエンジンテストベンチは古く、環境上、更新もできなかったため、ハイパワー化するレーシングエンジンの実験には使えないものだった。鶴見は、そもそもエンジン開発部門のあった場所。移転に先行して2006年から稼働していたエンジンベンチには、最新鋭のテストベンチが導入され、社内で車両走行を模したレーシングエンジンの開発も行えるようになった。
一方、一般のファンに向けたショールームもイベントスペースを兼ねた大きなものとなり、常に複数のレーシングカーやNISMOロードカーの展示が可能。NISMOブランドの情報発信地として週末には国内外のファンが多く訪れるようになっている。
また、一般ユーザー車のメンテナンスやチューニングを行う『大森ファクトリー』は、移転した後もあえて『大森ファクトリー』の名を残し、NISMOの歴史を今に伝えている。
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