NISMOパーツの歴史 NISMO PARTS

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NISMO パーツビジネス Part 2 成長期~現在へ(1994~)

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 1993年1月の東京オートサロンに、1台のNISMO仕様車を展示した。Y32型グロリアをベースにNISMO製のエアロパーツを装着したカスタマイズカーである。車両展示のみではあるが、NISMOとして東京オートサロンに初めて出展。そしてY32型セドリック/グロリア用のエアロパーツを同年4月に発売。NISMOとして本格的なエアロパーツの開発・販売であり、大きな注目を集めた。

 その後、S14型シルビアのエアロパーツを開発・販売。これは10周年記念車として開発されたコンプリートカー「NISMO 270R」にも採用された。さらに同年8月にはK11型マーチのエアロパーツとスポーツパーツをリリースなど、矢継ぎ早にストリートパーツの開発・販売を行なった。

 1994年1月、東京オートサロンに今度はNISMOとして初めてとなる出展ブースを構えた。ただし、後に「ワークスチューニング・グループ」となるTRD、マツダスピードとの3社合同による出展だった。NISMOは、R33型スカイラインにエアロパーツを装着した車両と、K11型マーチのワイドトレッドバージョンを展示し、大きな話題となった。本格的なアフターマーケット市場への参入である。

1996年頃からクルマを改造して楽しむアフターマーケット(ストリートチューニング)の世界はこれまでにない盛り上がりを見せはじめていた。

 ことの発端はアメリカのダンパーメーカーがきっかけで、日本のアフターマーケット市場に貿易障壁があると指摘されたのだ。このため、アメリカから門戸を開放するよう圧力がかかったのである。それは、日本の車検制度に関わることであった。それまで、クルマの改造は極めてグレーなゾーンであり、合法なのか、違法なのかがわかり難いという部分が多かった。このため、一部のマニアックなクルマ好きがリスク覚悟で改造すなわちチューニングを行なうという世界であったのだ。

 さらにグレーゾーンなだけに自動車ディーラーも改造車には否定的であり、こうした点をアメリカに指摘されたのである。そこで、当時の運輸省(現・国土交通省)は車検場での検査基準の明確化と簡略化を行なうことにした。このため、NISMO、TRD、マツダスピードの各担当が月に1回は運輸省に呼ばれて様々なパーツのヒアリング調査が行なわれたのである。

 運輸省のヒアリングは1年近く続けられ、1996年から実際に運用されはじめた。一般にチューニング業界の規制緩和と言われているが、じつは法規や基準に大きな変更はなく、実態は検査基準の明確化であった。1996年の東京オートサロンでは、ワークスチューニング・グループとして、クルマの改造に関する啓蒙活動を積極的に行なった。

 1996年以降、日本のアフターマーケットはバブル景気のような盛り上がりを見せ、NISMOもその大きな波に乗り、スポーツパーツのラインアップを爆発的に拡大したのである。この結果、それまでは一部のマニアに向けたパーツが、日産ディーラーでも装着できるようになり、マーケットは拡大した。そしてNISMOブランドの認知度も、チューニングにはそれほど興味のなかった人々にも深く浸透し、現在に至っている。

 2000年、NISMOは、S-tune/R-tune/Z-tuneという新たなチューニングコンセプト(別項目で解説)を展開し、サスペンションパーツやブレーキパーツなど、このコンセプトに基づいて開発するようになった。さらに、長きにわたって着手してこなかったストリート向けのエンジンチューニングメニューも2000年に展開を開始した。

 2009年、エンジンチューニングメニューとして、R35型NISSAN GT-R用スポーツリセッティングのレンタルを開始した。この時、従来のNISMOショップの形態を、日産ハイパフォーマンスセンター(NHPC)をベースとした取扱店(現NISMOパフォーマンスセンター)へと変えていった。

 2017年には、「NISMOヘリテージパーツ」(別項で解説)を発売し大きな話題となった。これは、R32スカイラインGT-Rなどの第2世代GT-Rを中心に、製造廃止となっていた各種純正パーツの復刻で、パーツの入手に困っていたオーナーにとっては朗報であった。

 1984年のNISMO創業時には細々としたパーツビジネスであったが、時代のニーズと流れに伴い、NISMOのパーツビジネスは拡大しグローバルに展開するまでになり、今後も成長を続けていく。

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