国内モータースポーツ活動 DOMESTIC MOTORSPORTS

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1992年全日本ダートトライアル 3クラス制覇の快挙

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 NISMOが行なった国内ダート競技はラリーだけではなかった。ダートトライアル、通称「ダートラ」という日本独自のモータースポーツでもNISMOの存在感は光っていた。

 ダートラはダートコースでタイムを競う競技で、もともとは、ラリーの練習のためにダートの広場にパイロンを置いて走っていたものが、いつしか競技になったという。1台づつコースに入りタイムアタックする競技形態は、ジムカーナと同じだ。

 古くはグランドなど広場のパイロンコースが主体だったが、いつしか専用のダートコースが各地に登場するようになった。しかしコース距離も短く、雨が降ればヌタヌタの泥田のようになったり、ドライでは凸凹が大きくクルマに対する負担もかなり大きかった。

 1980年代に入ると、1km以上の距離が取れる大規模なダートコースが登場する。路面も整備され、ストレートスピードは軽く100㎞/hを超えるコースの登場で、ダートトライアルも一気にハイスピード化が進んだ。

 NISMOも1984年創立直後から全日本クラスのダートラユーザーをサポートしていた。当初は改造車クラスの310型サニーが中心。レースパーツも豊富な310型サニーは人気車種で、多くのユーザーが310型サニーでダートラに参加していた。

 やがて1987年に国内ラリーベース車のU12型ブルーバードSSS-Rが、翌1988年にはK10型マーチR、1989年に同じくK10型マーチスーパーターボがデビューすると、全日本クラスのユーザーサポートを行なった。ちなみに、K10型マーチRはナンバー付きクラス、マーチスーパーターボは改造車クラスであった。そして、K10型マーチスーパーターボは改造車クラスでも1990年にシリーズチャンピオンを獲得。

 さらに、この当時話題となったのがR32スカイラインGT-Rである。R35 GT-Rの開発ドライバーとして有名な元日産自動車実験部の松本孝夫のマシンだ。その圧倒的な加速力は、当時のダートラ界の名物でもあった。 

 1990年にN14型パルサーGTI-Rが登場すると、全日本クラスでも一気に日産車ユーザーが増えた。有力ドライバーがこぞってN14型パルサーGTI-Rに乗り換えたのである。 ナンバー付きクラスで1991年景山陽彦がチャンピオンに輝いた。

 とくにエンジンチューニング等が行なえる改造車クラスで顕著だった。理由はグループA仕様でWRC(世界ラリー選手権)制覇を謳うパルサーGTI-Rだけに、チューニングパーツも豊富で高い戦闘力が期待されたためである。NISMOも、こうしたパルサーユーザーの支援を行ない、様々なパーツの開発も有力ユーザーとともに行なった。

 こうした活動の中で生まれたのが、世界初となる量産型機械式センターLSDだった。ただし、セッティングが難しく、各チームは苦心していた。しかし、1992年になるとセッティングの方向性が見え、ナンバー付クラスでは全日本ラリーでも活躍する綾部美津雄がチャンピオンを獲得しN14型パルサーGTI-Rの2連覇を達成。さらに改造車クラスでも小林照明が機械式センターLSDを装着したN14型パルサーGTI-Rでそれぞれシリーズタイトルを獲得した。また、2000cc以下の改造車クラスでもB14型サニー4WDの登坂均がシリーズタイトルを獲得し日産車が3クラス制覇の偉業を成し遂げた。それまでのNISMOの活動が花開いた年であった。

 そして翌1993年も、改造車クラスで小林照明が2連覇を達成。2000cc以下の改造車クラスでもB14型サニー4WDが2連覇を達成。しかし、この年を最後にNISMOは国内ダート競技から撤退したのである。

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