国内モータースポーツ活動 DOMESTIC MOTORSPORTS

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新たな全日本ツーリングカー選手権(JTCC)(1994) P10型プリメーラとB14型サニー

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 グループA仕様車によるモータースポーツの終焉は、世界的な流れだった。改造範囲の狭いグループAは、ポテンシャルの高いベース車が必要となり、自動車メーカーの負担が大きくなっていた。スカイラインGT-Rのようなポテンシャルの高い車両を一定数生産する必要があり、とくに欧州の自動車メーカーにとっては負担の大きなレースカテゴリーとなっていたのだ。

 日本のグループAレースも1993年で終了し、翌年からは新しい規則のJTCC(全日本ツーリングカー選手権)がスタート。当初はニューツーリングカーと称していた。

 このレースは、当時、人気の高かったBTCC(英国ツーリングカー選手権)を参考に導入されたもので、参加車両は、排気量2000㏄以下のノンターボエンジン。車体は4ドア以上の量産車ベースとなっていた。ベース車の駆動方式についてはFR(後輪駆動)と4WDに重量ハンデが課せられていたため、大半のチームはFF車をセレクトした。

 レースもグループAの耐久レースから、距離の短いスプリントレースに変更。しかも、1日に2回のレースを行ない、観客は2度、激しいバトルを見ることができた。また、1回目と2回目の間には、マシンの仕様変更やクラッシュした車両の修復作業など、レースメカニックの活躍もこのレースシリーズの見所のひとつでもあった。

 日産はこのレースにP10型プリメーラを選択。エンジンはSR20DE型をベースにレース専用のチューニングを施した。さらにシーズン途中からはB14型サニーも投入。ライバルも多彩な車両が参加し、性能も拮抗していたレースシリーズだった。

 1995年、ベース車のプリメーラがP11型にフルモデルチェンジ。それに伴い、翌1996年のシリーズからレースカーもP11型プリメーラに変更され、1998年のJTCCシリーズ最終年まで使用された。

 ニューツーリングカーは、いわゆるハコ車のレースカー作りの大きな分岐点でもあった。

 とりわけボディメイキングが顕著で、ロールケージを単なる安全装備から車体剛性を高めるための構造部材として重視されるようになった。まさしく鳥籠のように張り巡らされたロールケージは見るものを圧倒した。

 またドライバーの着座位置もグループA時代の量産車に近い位置から、極力低く、さらに車体中心線に寄せられ重量配分、低重心化を意識したものに変わってきた。

 重心位置を下げるために、車高を極端に低くするためフェンダー内を大幅に加工、ホイール上部がフェンダーに隠れるほど低くなったのもこの頃からだ。

 同様にエンジンも搭載位置が極端に低くなり、かつ後方に搭載され、低重心化および前後重量配分を改善していた。

 この結果、FF車といえども優れたハンドリングを獲得し、実際、FF車を好まないトップドライバーの評価も高かった。

 本場のBTCCではドライバー同志の激しいバトルが見所であった。性能差が少ないため、コーナーには団子状態で入り、マシンの接触も多発。怒りをアピールするドライバーの姿も車載カメラでTV中継され、さながら格闘技のようなシーンの連発に、欧州では高い人気を誇ったレースだった。またコースも常設のサーキットだけでなく、空港の滑走路に作られた特設コースなどを使用し、観客席からコース全体が見えるような配慮も人気が沸騰した理由のひとつだろう。

 プリメーラは、本場欧州のBTCCに1996年からP10型プリメーラで参戦。1997年にはニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ (NME) からP11型プリメーラ2台でフル参戦を開始した。そして、1998年には、年間最多の9勝を挙げ、ついにチーム&マニファクチャラーズの2冠を達成しシリーズチャンピオンに輝いた。

 一方、日本では従来の常設コースでのレースで、TV中継も無かった。

 さらに、レース中の接触が多かったため、毎レース終了後には車両修理にチームは追われることになり関係者には不評をかった。画期的なレースではあったものの、地味な4ドアセダンで、しかもターボ車のような圧倒的なスピード感が薄かった点など、日本においてはグループA時代のような人気レースにはならなかった。

全日本ツーリングカー選手権(JTCC)仕様プリメーラ 1993年 開発テスト

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