●●●
デビュー戦の舞台は、今は無き西日本サーキット。カルソニックカラーとリーボックカラーの2台のスカイラインGT-Rがサーキットに帰ってきた。その走りをひと目見ようと大観衆が訪れた。
スカイラインGT-Rは予選から圧倒的な速さを見せつけた。星野一義が駆るカルソニックスカイラインがポールポジションを獲得。2番手には長谷見昌弘のリーボックスカイラインが僅差で続いた。そして前年まで隆盛を誇っていたフォード・シエラRS500は3番手。なんとトップ星野との差は2秒近くも開いていたのだ。
決勝レースでも2台のGT-Rが終始リードし、見事、1-2フィニッシュでデビュー戦を飾った。しかし、2位のリーボックスカイラインには駆動系のトラブルが発生していた。優勝したカルソニックスカイラインは全車周回遅れにする速さを見せたが、同様に駆動系に問題を抱えてのゴールだったのだ。しかし、この開幕戦からGT-Rの不敗神話が生まれる。1990年は5勝を挙げたカルソニックスカイラインがタイトルを獲得した。
そして迎えた最終戦のインターTEC。3月のデビュー戦以来、負け無しで連勝街道を驀進中のスカイラインGT-Rの雄姿を見ようと多くの観客が富士スピードウェイに集結していた。決勝日だけでも8万人を超える来場者数。金曜日の公開練習からの延べ人数は、なんと11万700人という驚くべき数字だった。
これまで、インターTECは1985年の第1回大会以来、欧州勢が毎回制してきたレース。ちなみに1985年、1986年は何とも無骨なスタイルのボルボ240ターボが連覇、その後はフォード・シエラRS500が1987年から1989年までを3連覇していた。スカイラインGT-Rの雄姿を見たいというのもあったが、やはり欧州勢をスカイラインGT-Rが撃破してくれるという期待も多くのファンが抱いていたにちがいない。もちろん、日産・NISMOにとっても、このインターTEC制覇は悲願だった。
予選では、早くもというか、このシーズンとしてはいつもの展開で2台のスカイラインGT-R勢が圧倒的な速さを見せた。トップタイムは星野一義のカルソニックスカイラインが1分31秒304を叩き出しポールポジション。2番手には長谷見昌弘のリーボックスカイラインが僅差で続く。フォード・シエラRS500勢の最速タイムは1分34秒667で3番手。なんとトップ星野との差は3秒近いものがあった。
決勝レースも、いつものように2台のGT-Rが後続をぐいぐい引き離す展開。最終的には僚友のリーボックスカイラインも周回遅れにしたカルソニックスカイラインが、ついにインターTECを制した。そして2位はリーボックスカイラインが入り、スカイラインGT-Rの1-2フィニッシュで、悲願のインターTEC制覇となった。
スカイラインGT-Rのデビューイヤーは、蓋を開けてみれば6戦中、5戦は1-2フィニッシュという圧倒的な強さを見せ、ライバルの戦意を喪失させたと言っても過言ではない。
翌1991年になると、もはやフォード・シエラRS500に勝ち目はないと判断したチームも多く、GT-Rのワンメイク化の様相を呈してきた。そして、この年のタイトルはリーボックスカイラインが獲得した。
1992年、クラス1はGT-Rのワンメイクとなった。NISMOからは共石スカイライン GP-1プラスが新規にエントリー。シリーズチャンピオンには、2年連続でリーボックスカイラインが輝いた。
グループA最後のシーズンとなった1993年。NISMOからは日鉱共石スカイラインGP-1プラスに加えてSTPタイサンGT-Rも参戦した。シリーズタイトルはカルソニックスカイラインが獲得し、有終の美を飾ったのだった。
1990年のデビュー戦以降、GT-Rは全戦全勝、負け無しの29連勝を飾った。まさにグループAレースを制覇したといえる強さだった。BNR32スカイラインGT-Rの強さの源は、もちろん、そのスペックによるところもあるが、やはり日産自動車の量産車開発部隊とレース部門であるNISMOが一体となって、ベース車の開発を行なったことではないだろうか。BNR32型スカイラインGT-Rは、まぎれもなくレースに勝つために生まれたクルマといえるのだ。
1989年全日本ツーリングカー選手権(JTC) シーズンダイジェスト
1990年全日本ツーリングカー選手権(JTC)シーズンダイジェスト
1991年全日本ツーリングカー選手権(JTC)シーズンダイジェスト
1992年全日本ツーリングカー選手権(JTC)シーズンダイジェスト
1993年全日本ツーリングカー選手権(JTC)シーズンダイジェスト
●●●