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1995年1月6日金曜日、東京・晴海で行なわれていたチューニングカーの祭典「東京オートサロン」にて、新型のBCNR33型スカイラインGT-Rが発表された。その日、NISMOブースには、ベールを被った1台のクルマが展示されていたが、そのクルマが新型のR33 GT-Rそのものであることは会場内の誰もがわかっていた。
NISMOは、前年の1994年からTRD、マツダスピードとともに3社合同ブースで「東京オートサロン」に出展し、本格的にアフターマーケットの世界への進出を計画していた。
午後2時、NISMOスタッフにより剝がされたベールの下には、周囲が予想した通り、発表されたばかりのR33 GT-Rの姿があった。しかも、既にNISMO流のカスタマイズが施された状態で、車高は下げられエアロパーツまで装着されていた。とりわけ注目を浴びたのは、シルバーのボディに貼られた黒いストライプの後端には“400R”の文字があったこと。スペックボードには「NISMO 400R PROT 最高出力400馬力」とあった。当時のクルマ好きならばこの言葉が何を意味しているかは、すぐに理解できた。なぜなら、前年にNISMO初の市販コンプリートカー「NISMO 270R」がデビューしていたからだ。
車名を示す最高出力400psは、NISMOがN1耐久レースやスパ24時間レースにおける経験から、この出力ならエンジンやトランスミッションの耐久性も確保できると確信した数値。このことからも、NISMOがコンプリート化を狙っていたことは明らかだった。
開発テストドライバーは主に木下隆之が担当。国内耐久レースはもちろん、スパ24時間レースでもGT-Rのステアリングを握っていた彼は、既にジャーナリストとして活躍していた時期で欧州の著名なスーポーツカーや国産チューニングカーなども多数試乗していたからだ。400Rの開発テストはサーキットだけでなく、高速道路や箱根のワインディングロードでも集中的に行っていた。ストリートカーである以上、乗り心地も含めた日常性も重視したためである。
当初はRB26DETTのオリジナル排気量である2.6ℓで開発をスタートしていた。そしてターボチャージャーは耐久性の高いN1用メタルタイプを採用した。しかし、ロードカーとして排気騒音の規制や触媒の装着、そしてNISMOが独自に決めていた自動車メーカーと同じ10・15モード、11モードの排気ガス規制をクリアすることがネックとなり、最高出力の400psこそ達成できたものの、中低速トルクが不足しコンプリートカーとしては物足りなかった。この排気ガスモードをクリアするために、N1タービンを下から回せるようなカムシャフトやバルブタイミング設定ができなかったのである。
その頃、ル・マンに参戦するGT-RやGTマシンのRB26DETTが2.8ℓエンジンに移行しはじめた時期だった。そこで排気量をアップすることでN1タービンを効率よく回すことを選択した。この結果、カムはノーマルでも下からターボを使え、押し出し感の強い400R独特の加速フィールを得ることができた。このエンジン特性が手に入ったことで、一気にシャシー側の開発も進んだ。
外装関係では、275/35R18のタイヤを装着。全国の車検場で通すためオーバーフェンダーも装着された。これが400Rのアイキャッチのひとつともなった。またボンネットも冷却性能向上のためアウトレット付とした。デザインはGTマシンを参考にしている。こうして400Rは1995年末には仕様が固まった。
翌1996年の「東京オートサロン」では、シルバーから深紅に化粧直しされたNISMO 400Rが展示され、大々的にコンプリートカーとしての発売を発表。99台の限定販売で1200万円というプライスタグも大きな話題になった。また完成した車両はすべて日産追浜工場のテストコースに持ち込み、ナラシ運転と性能品質の均一化がはかられた後、オーナーの元へNISMOスタッフにより届けられた。
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