Vol.4
1982年5月21日、スカイラインスーパーシルエットの記者発表が行なわれた。1972年、初代スカイライン2000GT-Rのワークス活動が終了して以来、約10年ぶりにスカイラインがサーキットに帰ってくるのだ。80年代初頭、若者に大人気となったスーパーシルエットレースに満を持して真打がいよいよ登場する。
日産は、この富士スーパーシルエットレースに1981年はターボエンジンを搭載したS110型シルビアとガゼールでエントリーしていたが、翌1982年にはこのレースの人気を決定付ける3台のニューマシンでエントリーする。
その3台とは、S110型シルビアターボ、910型ブルーバードターボと、最も遅れて8月からデビューの長谷見昌弘のドライブするDR30型スカイラインRSターボ・スーパーシルエット。この3台が「日産ターボ軍団」と愛称され、大人気となったのだ。
特に、スカイラインスーパーシルエットは、長谷見昌弘の呼びかけに応えた全国の日産プリンス系ディーラー有志が「NISSAN PDC」として後援し、強力なスポンサーのひとつとなって実現したエントリーでもあった。
これらのニューマシンは、それまでの量産車用モノコックを大幅に改造したマシンから、新たに鋼管パイプフレームを使ったより本格的なレースマシンに変更されていた。フレームの開発はノバ・エンジニアリングが担当している。
エンジンは1981年と同じく4気筒4バルブDOHCターボのLZ20Bをフロントミッドシップに搭載。ギャレット・エアリサーチ社製T05Bターボチャージャーを装着し、ルーカス製メカニカルインジェクションシステムとの組合せで、最高出力は570ps以上を発生していた。
外観こそ市販車のスタイルを保っているが、シャシーはパイプフレームによる完全なレーシングカー。そのため、これらグループ5カーたちは「シルエットフォーミュラ」とも呼ばれたのだった。
ルーカス製メカニカルインジェクションシステムの特性から、減速時のシフトダウンで大きな火炎をエキゾーストから噴き上げる走りが日産製スーパーシルエットカーの特徴的なシーンで、これが多くのクルマ好きな若者ハートを射止めたのだ。
通常のレース観戦は直線のスピードやコーナリング中のドリフトシーンなどがポイントとなるが、コーナー進入時の減速シーンを見たいと思わせたレースは、このスーパーシルエットシリーズだけではないだろうか。
当時のエンジニアである岡寛によれば、「パイプフレームのシャシーは剛性が低くて、それに起因するアンダーステア対策に苦心しました。それを少しでも解消するために、空力パーツの試行錯誤を繰り返したんです。今と違って、レース用車両の開発ができる風洞設備がない時代だから実際に走って決めるしかありませんでした」という。
一方、ブルーバード・スーパーシルエットをドライブした柳田春人によれば、「エンジンは、中低速トルクがなくいわゆるドッカンターボでした。1トンそこそこのボディにピーキーな570馬力のエンジンだから、じゃじゃ馬でしたよ。でも直線はとにかく速かった!」と当時を振り返る。
また、「エンジンの耐久性をあげることも課題でした。ルーカス製メカニカルインジェクションの指定燃圧は6kgf/cm2でしたが、実は15 kgf/cm2にしていたんですよ。この高い燃圧に起因するトラブルが多かった。プラグも10番という高熱価なものを使っていました。燃料の調整はプラグの焼け具合で判断していた時代ですよ」と前述の岡は笑った。
さらに「フロントには巨大なインタークーラーを装着していましたから、ラジエターの置き場がなくなったんです。それでサイドラジエター方式にしました。当時は、サイドラジエターのマシンなんて世界的にみても少なかったから、かなり先進的なマシンを造っていたんですよ」と岡は当時を振り返る。
3台の日産ターボ軍団の登場で、富士グランチャンピオンレース(富士GC)の前座レースだったスーパーシルエットシリーズの人気は頂点に達する。レース開催日には東名・中央の両高速道路が渋滞するほどの過熱ぶりで、一種の社会現象として語られるほどだった。
だが、1982年のFIA車両規定変更でグループ5が廃止となり、これにより1983年限りで富士GCシリーズの中のスーパーシルエットシリーズは終了となってしまう。そして、翌年からは新規定「グループC」のレースへと静かに移行していくのである。
しかし、その最終シーズンの終盤にあたる時期にもかかわらず、長谷見昌弘のスカイラインRSターボと星野一義のシルビアターボは、それぞれ市販車の変更に伴いイメージを一新する。
スカイラインRSターボは、83年8月のマイナーチェンジから登場したグリルレスの特徴的なフロントエンド=通称「鉄仮面」と呼ばれる顔つきに、シルビアターボはリトラクタブルヘッドライトのS12型風のシルエットにそれぞれ変更された。この変更は、グループ5のマシンたちにとって「最新の市販車のイメージ(シルエット)」がきわめて重要だったことのひとつの証左といえる。
1984年、終焉したかに見えたスーパーシルエットレースは、実はこの年にも3戦ほど開催されていた。それぞれが単独イベントだが、日産ターボ軍団も参戦している。そしてその最後のレースは12月9日の筑波チャレンジカップシリーズ第5戦で、これを最後に、スーパーシルエットの時代は幕を閉じたのである。
最高の人気を誇った真打・スカイラインスーパーシルエットの登場からわずかに2年と3戦。それでも最強日産ターボ軍団が人々に与えたインパクトははかりしれない。そして、スーパーシルエットカーの熱狂は、そのまま、日産の量産ターボエンジン車を強く印象付け、本格的なターボ時代の幕開けを予感させるものとなったのである。