Racing GT-R HISTORY ~写真で振り返る、熱きDNAの系譜~

Vol.1

栄光のエンブレム“GT-R”誕生

~R380から受け継いだ超高性能~

1963年の第1回日本グランプリが開催された当時、日本の自動車産業は成長著しい時代だった。欧米諸国の自動車先進国に追いつけ追い越せを目標に、ただひたすら前を向いて走っていた時代だった。当時の技術者たちは技術革新に邁進し、そんな時代にスカイラインGT-Rの源流も見出すことができる。

東京オリンピックを翌年に控えた1963年5月、日本初の本格的な自動車レースである第1回日本グランプリが鈴鹿サーキットで行なわれた。国内の自動車メーカーはこぞって参戦し、その中には日産自動車と合併する前のプリンス自動車もいた。自工会の「メーカーは一切協力しない。ファクトリーチームも参加しない。ユーザー自身の手にゆだねる」という申し合わせを忠実に守ったプリンスは惨敗を喫し、その後の販売面でも苦戦したという。この状況を打開するため、翌年の第2回日本グランプリに向けて新たなレース車両を開発することになった。

1963年9月にデビューした2代目にあたるS50型スカイラインはもともと4気筒OHV・1500㏄エンジンを搭載したファミリーセダンだったが、大パワーなグランドツーリングカーが競う「GT-II」クラスに向けて、これを改造してよりパワフルなグロリア用の6気筒OHC・2000㏄エンジンを搭載する案が採用された。

全長の長い6気筒エンジンを搭載するため、エンジンルームをなんと200㎜も延長。ホイールベースもそのまま200mm延長となった結果、コンパクトなファミリーセダンは、スパルタンな出で立ちのスカイラインに生まれ変わった。これがスカイラインGT-Rの原点となる、S54型スカイラインGTである。

1964年5月、第2回日本グランプリの開催される鈴鹿サーキットに、プリンスの技術陣は勝利を確信して乗り込んだ。ところが、彼らの前に思わぬ敵が出現する。ポルシェ904である。ミッドシップにDOHCエンジンを搭載し、軽量なFRPボディをまとった純レーシングカーだった。対するスカイラインGTはスチールボディの無骨なセダン。

しかし、人々の目は、ポルシェと、国産車最強と目されるスカイラインGTの両者に集中していた。そして、ドラマは決勝レースの7周目に起こった。スカイラインGTが一瞬の隙をついてポルシェ904の前に出たのだ。わずか1周の出来事ではあったが、スカイラインがポルシェを従えて観客が総立ちするグランドスタンド前を通過したのだ。この伝説的なシーンは、終戦から19年、世界に追いつけ、追い越せを目標にがむしゃらに突っ走ってきた多くの日本人にとって、溜飲の下がる思いを実感した瞬間でもあった。スカイラインGTは結局ポルシェに次ぐ2位~6位を独占する結果に終わるが、大観衆の賞賛の声は、優勝したポルシェではなく、ほとんどがスカイラインのほうに向けられていたのだった。

この後、プリンスは打倒ポルシェを目標に掲げ、国産初の純レーシングマシンR380の開発に着手した。鋼管パイプフレームに軽量なアルミボディを採用、エンジンは既存の2000㏄直列6気筒をベースとし、当時最先端ともいえる4バルブDOHC方式を採用した。オイル潤滑面でもコーナリング時の横G対策でドライサンプ方式が採用されるなど、プリンスが前身とする立川・中島飛行機の戦闘機エンジン開発のノウハウが存分に生かされていたのである。

翌1966年5月、舞台を富士スピードウェイに移した第3回日本グランプリに改良型のR380A-Ⅰが出場。ついに宿敵・ポルシェ906を抑えて優勝を飾る。これは、日産自動車と合併が決まっていたプリンスの、プリンスチームとしての有終の美であった。

1969年2月には先代のS54型スカイライン2000GTの後継モデルとなるPGC10型スカイライン2000GT-Rがベールを脱いだ。その心臓部にはR380から譲り受けた、直列6気筒4バルブDOHCエンジンを市販用にモディファイしたS20を搭載。当時、世界的に見ても4バルブDOHCを搭載した量産車は類を見なかった。このクルマがやがて、日本のモータースポーツ史に不滅の金字塔を打ち立てることになるのだ。

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