デイトナ24時間と言えば、1992年に長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男の日本人トリオが操ったニッサンR90CPが総合優勝を飾ったことが思い出される。今年も伝統のイベントは、2月3〜4日にフロリダ・デイトナスピードウェイ(1周=約5.7km)で開催された。そしてそのサポートレースでニッサンR90CPが優勝、R90CKが3位でゴールを果たした。
サポートレースの名称は「HSR(Historic Sportscar Racing)2001サンダースポーツ」と呼ばれる80〜90年代に一世を風靡したグループC/IMSA GT/CAN AMマシンによるレースで、シリーズが組まれている。今回のエントリー台数は50台で、70年代のシェブロンやローラ、80年代のロンドー、ランチアLC2など日本でもおなじみのマシンが、当時のカラーリングそのままで時代を超えて勢ぞろいするさまは圧巻。なかでも中心となったのは、80年代後半から90年代前半にかけてグループCの最後を飾ったマシンたち。
ロスマンズカラーやシェルカラーのポルシェ956/962Cをメインとして、ジャガーXJR-11、今回の目玉であるメルセデスC11(カール・ベンドリンガー/ミハエル・シューマッハ―/フリッツ・クロイツポイントナーの名前が刻まれている!)、そしてニッサン勢がグリッドに並んだだけで、当時を知る者は武者震いがするほどだ。当時彼らに注ぎ込まれた開発費は、今回のデイトナ24時間参戦車両のトータルを遥かに上回っていることは間違いない。そんな豪華な夢のようなレースが始まろうとしている。
このレースにエントリーしたニッサン車は5台だったが、実際に走行できたのは3台。ジュリアン・ベイリー/マーク・ブランデルの名前が残るニッサントリコロールの#124はR90CK。これはNMEワークスからWSPC(世界スポーツプロトタイプカー選手権)を戦ったマシンで、ここではアンデルス・オロフソンがステアリングを握る。しかしこれまでマシントラブルが多く満足な走りができなかったという。もう1台はJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)でノバ・エンジニアリングに渡された#27フロムエーニッサン。日本最後のCカーレースとなった93年鈴鹿1000kmで2位ゴールしたマシンそのものだ。ドライバー名もマウロ・マルティーニ/ハインツ-ハラルド・フレンツェンが入る。この2台はイギリスのグループC LTDという会社所有のマシンで、メンテナンスおよびマシンチェックにはNISMOスタッフが日本から駆けつけるなど、今回のイベントに対する意気込みが感じられた。さらに、アメリカIMSAシリーズを制覇したNPTI(ニッサン・パフォーマンス・テクノロジー)の車両3台のうち#38が加わった。
予選で1分41秒956のベストタイムをマークしたのは、イギリス人であるチャーリー・アグの駆る#27フロムエー・ニッサン。オロフソンの#124が3位、ブライアン・デブリーズの#38が11位とニッサン勢は元気だ。
35台が進んだ決勝は24時間レースの予選2日目にあたる金曜日に開催。レースは90分間のセミ耐久だ。スタートで飛び出したのは予選2位のスパイス。しかしすぐに2台のニッサン、さらにメルセデスC11が先頭争いに加わり、往年のバトルを彷彿とさせるようなバトルが始まった。ニッサンとポルシェの豪快なエキゾーストノート、そしてメルセデスの唸るようなサウンドは健在。ドライバーも真剣で、フロムエーはスピンして遅れ、またメルセデスもタイヤバーストしてリタイアするなど、エキシビションレースのようなのんきな様子はない。
ペースカーが入りその隙にニッサンの2台はピットインを済ませると、最も国際レース経験豊富なオロフソンがドライブする#124がトップに立ち後続を引き離していった。オロフソンはその後もR90CKの手綱を緩めることなく、安定した走行でトップを快走。しかし終盤、ペースを落としてピットイン。ギヤが3速に入ったまま抜けなくなってしまったため、応急処置を施しコースへ復帰。その間に2位を走行していた#27 R90CPとスパイスに先行され、そのままの順位でチェッカー。惜しくも1-2フィニッシュはならなかったが、十分なパフォーマンスを見せつけ、優勝&3位という素晴らしい成績でレースを終えた。
次は3月17日にセブリング12時間のサポートとして第2戦が開催される。今回の結果からも、速さ、信頼性の両面でニッサンがトップクラスであることは明らかで、今回以上の結果が期待される。