Racing GT-R HISTORY ~写真で振り返る、熱きDNAの系譜~

Vol.3

熱狂のスーパーシルエットⅠ

~ターボ時代の幕開け~

1970年代初頭は、スポーツカー受難の時代であった。社会問題化していた大気汚染問題に呼応して、各自動車メーカーは低公害エンジンの開発に注力し、モータースポーツ活動はおろか、市販のスポーティモデルをラインアップすることさえ困難だったのである。しかし、その積年の努力が実り、70年代後半になるとかつては無理難題といわれた昭和53年規制の対応にも目途が立ち、パワフルなエンジンを積むスポーティモデルが再度登場し始める。日産はターボエンジンにシフトし、サーキットでも人々に強烈なイメージを残したのだ。

1972年、日産はスカイライン2000GT-Rによるワークス活動を休止した。量産車としては1972年9月にフルモデルチェンジした4代目C110系スカイライン(通称「ケンとメリーのスカイライン」)にも、翌1973年1月に新型となる「2000GT-R(KPGC110型)」を発売したが、わずか200台足らずで生産終了。“スカイラインGT-R”は長く途絶えることになった。

1970年代前半は、アメリカに端を発し、日本でも深刻化していた大気汚染に呼応した厳しい排気規制により、多くのスポーツカーがその牙を抜かれることになった。スカイライン2000GT-Rも例外ではなく、また、超高性能を謳った4バルブDOHCのS20型エンジンも排気規制の前に姿を消した。

同時に、スポーティなエンジンの代名詞的存在であったツインキャブレターも排気規制の前に姿を消し、スカイラインは長い不遇の時代を迎えていた。一方、ライバルのトヨタは、4気筒2バルブDOHCを電子制御インジェクションとの組合せで存続させ、2代目セリカに搭載していた。

1979年のセリカのCMでは「名ばかりのGT達は、道をあける」と暗にスカイラインをターゲットにした強烈なキャッチコピーに「ツインカムを語らずに、真のGTは語れない。新・セリカ」とたたみかけ、悔しい思いをした日産ファンも多くいた。

しかし、この冬の時代に、日産のモータースポーツの本拠地であった追浜(通称「追浜ワークス」)では、純モータースポーツ用エンジンとして4気筒4バルブDOHCヘッドを開発し、主に海外ラリーで実績を挙げ、技術に磨きをかけていた。また、同時に次世代のモータースポーツエンジンとしてターボ過給エンジンの開発を進めていたのだ。

早くも1974年には、マレーシアで開催された “セランゴール・グランプリレース” に4バルブDOHCターボエンジンを搭載したKP710型バイオレットターボで高橋国光が総合優勝を成し遂げている。追浜ではその後も4バルブDOHCエンジンとターボエンジンをモータースポーツフィールドで熟成させ、その時を待っていた。

1970年代後半になると、困難を極めた量産車の排気対策も希薄燃焼や触媒技術の蓄積によってひと段落したことから、排気対策時代に課題となっていたパワー向上にリソースが割けることとなった。日産は、ターボチャージャーによる過給を、低燃費と高出力を両立する新技術と位置づけ、1979年12月、ついに日本初となる量産ターボエンジン搭載車として430型セドリック/グロリアターボを発売した。

この当時、市販車でターボと言えばポルシェ911ターボのようなスーパーカーや、BMW2002ターボなどのごく限定されたホモロゲーション(認証用)モデルにしかない高嶺の華だったが、セドリック/グロリアターボの登場でそのパフォーマンスとターボエンジンの独特のフィーリングが広く味わえるようになったことは革命的であった。

翌1980年には、日産は、セドリック/グロリアよりスポーツ色の濃い910型ブルーバード、C211型スカイライン、S110型シルビアとターボ車のラインアップを拡充し、スポーツイメージの巻き返しをはかっていた。

ちょうどこの頃、富士スピードウェイでは、富士グランチャンピオンレース(富士GCあるいはグラチャンとして親しまれた)の前座レースとして「富士スーパーシルエットシリーズ」が1979年からスタートしていた。

市販車のシルエットを残したまま派手なエアロパーツをまとったマシンは、FIA車両規定上はグループ5(スーパープロダクションカー)と呼ばれるものだが、この「スーパーシルエット」たちによるレースは迫力満点で、徐々に若者に人気が出はじめていた。日産はこのシリーズにKP710型バイオレットターボや、後継のPA10型バイオレットターボを投入した後、S110型シルビア&ガゼールターボで参戦した。一方、トヨタもセリカLBターボを持ち込み、ターボカーによるレースは、新しい時代の幕開けを予感させた。

しかし、このスーパーシルエットシリーズを爆発的な人気イベント押し上げた千両役者の登場は、1982年まで待たねばならない。

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